この神社の御鎮座地を中心とするこの地方は、
往古上賀茂神社御祭神の外祖父・賀茂建角身命を祖とする賀茂族が
大和国より移動を開始し、現在の上賀茂の神山の山麓を定住の地と定め、
現在の荒神橋付近に至るまでの賀茂川と高野川とに挟まれた
広大なる土地の開墾に従事し、
さらに賀茂川の西岸、現今の西賀茂・大宮・紫竹・小山等の地区も開墾した。
折しも賀茂川の東沿岸には天然生の桑樹が存したのを幸いとして、
当時既に賀茂族と婚姻関係を結んでいた秦族とが協力して養蚕の業を営み、
続いて絹織物の製造に従事した。
ここに於いて奈良時代には既にこの地方は「錦部里(にしごりのさと)」と呼ばれていた。
平安時代に入って、後一条天皇の御代、寛仁2年(1018)11月25日朝廷より
正式に賀茂別雷神社の社領地として、四ヶ郷の土地の御寄進があったが、
その中に錦部郷と称してこの地方の名も存した。
それは前述の如く、賀茂族が既に開墾していた土地を、
朝廷に於いてその所有権が確認されたことを意味するものである。
その後、四国の阿波国に当時同じく
養蚕・絹織物染織製造に従事していた忌部氏の部族の人々が祖神として崇め、
且つ職業の守護神として進行を捧げていた天太玉命の御分霊を勧請鎮祭し、
農業・養蚕・絹織物染織業の守護神として仰ぎ奉ったのが、
現在の半木神社の起源である。
時が経て世は移り変わり現在は全くその旧態は存しないものの、
半木神社は大正13年(1923)この地に京都府立植物園が営まれてより、
現在植物園の守護神として、
且つ懸る所以によって養蚕・絹織物染織業界の守護神として広く崇敬を集めており、
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外末社としてお祀りされている。
長文になりましたが絹との関わりが興味深いです。
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