お盆の送り火(森)

如意ヶ岳の大文字をはじめ5山の送り火がありますが、市原の「い」の字は遠く亨保2年(1717年)に遡り、明治32年(1899年)まで180年の長きにわたり灯されておりました。
文久3年(1863年)山城国古地図にも「五山」と「い」の字が描かれています。
市原の送り火は前年のお盆から1年間に亡くなられた家々の負担で灯されてきましたが、里人のまきの負担が大きく明治32年を最後に消えてしまいました。
お盆の8月13日にお迎えした新精霊に、16日の夜再びあの世へ帰っていただくための道明かりとして「い」の字の送り火を灯し、最長老の新精霊の家で、女性は浴衣に三幅前垂れに団扇、男性は浴衣に手拭で向う鉢巻、おのおの手には数珠、兵児帯に団扇をさし、男たちの打ち鳴らす太鼓に合わせ、「ホーノ ハア ハハハー ハモーハノアミダー ホーイ」と唱えながらハモハ踊りで新精霊を送ったと伝えられています。
ハモハとは南無阿弥陀仏が訛ったものと言われています。
ハモハ踊りは今もハモハ会の方々によって受け継がれております。
市原の「い」の字のことは神宮寺弘法大使ご詠歌第五番に「人も知る市原山のいの字こそ 大師の筆は今に残れり」とあります。
送り火の「い」の字は、西は赤尾谷の尾根に、東は扇ヶ原の尾根に点火されたと伝えられています。
市原ハモハ踊り鉄扇保存会
会長 大原伝之助

送り火の点火はその他にもあったのです。
江戸時代後期、享保2年(1717年)の『諸国年中行事』には、鳴滝に”一”、竹に鈴(「竹の先に鈴(竿に鈴))”、西山(北嵯峨)に”蛇”、観空寺村に”長刀”などがあったと伝えら、明治以前には市原の「い」を加えて十山で行われていたそうです。

「竿に鈴」は大正初期まで点火されていましたが、その場所は一乗寺、静原、西山(松尾山)のいずれか不明確になってきています。

ちょっと長いレポートですが、送り火に関するお話でした。